マーク・トウェイン(訳:村川武彦)『まぬけのウィルソンとかの異形の双生児』

まぬけのウィルソン
アメリカ南部の田舎町に青年弁護士ウィルソンがやってきます。知的で愛嬌があり、誰とでもうちとけて話せる気のいい若者でしたが、小うるさい犬に向かってつぶやいたひとことが彼の評価を致命的に下落させます。

「あの犬のやつ、半分おれのだったらなあ」
「どうして?」だれかが訊いた。
「もしそうだったら、ぼくの分を殺してやりたいからさ」
(中略)
「馬鹿みたい」
「みたいだって?」べつの人が言った。「みたいじゃなくて馬鹿だよ、そう言ったほうがいいと思う」
「犬の半分が自分のものだったらなあ、と言ったな、あのまぬけ」と三人目の男が言った。「自分の半分を殺したら、他の半分はどうなると思ったのかなあ? 生きてるとでも思ったのかねぇ?」
「もちろん、そう思っただろうよ、まったくの馬鹿でもないかぎり。もし生きてると思わなかったとしたら、あの犬をまるごと自分のものにしたがったろうからね。だって、自分の半分を殺して他の半分が死んだら、自分の半分を殺すかわりに他の半分を殺した場合と同様、自分に他の半分の責任があることはわかっているわけだからね。ねえ、そう思わない?」
「うん、そう思う。一匹の犬の半分を自分のものにするというなら、やつはそう思っただろう。一匹の犬の片方をやつのものにし、別の片方をべつの人のものにするという場合でも同じだろうが、ことに前の場合そう思ったと思う。だって、もしだれかが一匹の犬の半分を殺した場合、それはだれの半分だったかなんてわかる人はいないが、もしやつが犬の片方を所有するのなら、ひょっとするとその自分のがわを殺して――」
「いや、やつは、どっちのがわも殺せないだろう。そんなことをしたら、別の片方が死んじゃうだろう。別の片方が死ぬなら、やつは、殺せないし、責任を負うということもないだろうよ。おれに言わせればあの男、正気じゃないよ」
「おれに言わせりゃあ、あの男、気が狂ってるね」

たったひとことが20年以上も祟って、まぬけ呼ばわりされ続けるウィルソン。まったく、悲惨としか言いようがありません。この物語はそんなウィルソンが探偵役となる一種のサスペンス・ミステリなのです。ウィルソンの趣味は指紋の採集。16分の1しか流れていないの黒人の血のせいで見かけは白人なのに奴隷の境遇にいるひとりの女のたくらみを、と書くと展開すべてがわかっちゃう気もしますが、物語の主眼はサプライズにはありません。自分が奴隷女の子供で黒人だと知ったトムの絶望、川下に売ると宣告された奴隷たちの悲嘆の叫びなど、当時の南部住民の心理を描き出した悲喜劇であります。

かの異形の双生児
「まぬけのウィルソン」読了後、なんとなく腑に落ちない気がしたかたも多いはず。「あの犬のやつ、半分おれのだったらなあ」というウィルソンのつぶやきが何を意味していたのか、イタリアからやってきた双生児の存在理由は、なぜ彼らは二人一組のように描かれていたのか、引き裂かれてはいねえだよなどと本文中で強調されていたのはなぜなのか、などなど疑問点はいくつも挙がります。
この単行本に収録されているふたつの物語はトッチ兄弟という互いに性格の異なるシャム双生児に題材を得たものでした。「かの異形の双生児」というその物語にまぬけのウィルソン、奴隷女ロクシーというふたりのキャラが割り込んできて、最初にいたはずのキャラたちはどこかに姿を消してしまいます。どうしようもなくなったマーク・トウェインが、物語をふたつに分離して出来上がったのが「まぬけのウィルソン」と「かの異形の双生児」2篇だったそうです。
「かの異形の双生児」に登場するアンジェロとルイージシャム双生児です。性質の異なるふたりでひとりを中心に、もうひとつの物語が展開されます。そして、読了後、読者はなぜこの物語がウィルソンのつぶやきから始まったのかを知ることとなります。

 すでに読者は練達の作家の仕事の仕方を知っている。さあこれで読者は、練達でない作家はどんな仕事をするかがおわかりだろう。

たしかにびっくりするぐらい、いびつでむりやりな小説でした。珍品だ!