僕の考えるブログ文章術 第5回:誤読は止められない

米光一成さんの連載「ブログ文章術」:http://blog.excite.co.jp/blog-jutsu/979930/
を読んでふと思うところを書いていた気もします。

いきあたりばったりに書いているので流れが見失われた気がします。
第1回の結論は「内輪だけのやりとりでいいなら、mixiでいいんじゃね?」でした。
第2回の結論は「まあ、それでもブログは閉じないでおこう」でした。
第3回の結論は「mixiは気楽/ブログは厳しい」でした。
第4回の結論は「やっぱり叩かれると痛い」でした。

それらを踏まえて、「叩かれないための文章」について考えていきましょう。
しかし、前回のエントリを読んだうえで

2006年03月08日 maname 『私はアンチだと思います。』

とあえてはてブに書いてしまうid:maname さんはなかなかやるなーと思う次第。


「叩き」はブロガーにとって死の病だと前回書きました。たとえそれが正当な批判であったとしても、対応にはある程度の労力を割かれますし、頷ける点も多いのですが常軌を逸してエネルギッシュなクレームは、一方的な削除で事態を終結できない分、AA荒らしなどよりもブログ主をいっそううんざりさせます。
誤読によるいわれなき批判の場合、事はさらに面倒です。ブログ主は、「自分の文章能力が低く、読者に意図が伝わらなかったことを否応なく突きつけられ」、「相手の誤解を解いた上で」、「それが単なる言い訳ではないことを証明してみせなければいけない」のです。考えただけで気が滅入ります。

幸福な誤読はあるのか?

文章力を向上させて、誤読されないエントリを書けばいいんじゃないの?
誤読もまた、コミュニケーションの一要素なんじゃないの?

ekkenさんの書かれた「誤解から始まるコミュニケーション」には

http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-58.html
また、あえて誤読されたまま、相手のコメント・トラックバックに乗っかる、という手もあります。話の流れ的に、その解釈が面白くて話題の発展性を感じられたのなら、誤読から始まるコミュニケーションは、有益なものになるかもしれません。

とあります。たしかに、ブログというツールを通してのコミュニケーションのありかたとしては興味深いと感じますが、個人的な感覚においてはこれは結構リスキーな行為です。エントリの執筆意図と誤解釈との微妙な齟齬が、のちのちのトラブルの火種となる可能性も若干ながらあるからです。「叩かれない」というテーマのもとにおいては避けておくほうが無難でしょう。

では、どう対応すべきか。簡単です。誤読された箇所については一切触れず、適当なレスをしておきましょう。あまりに場違いで返答に困る場合、完全スルーしてしまってもさほど問題ないと思いますが、とにかく否定も肯定もしなければそれで問題はありません。

誤読は止められない

文章力を向上させれば、誤読されない文章を書けるようになりますよね?

残念ながら、それも望み薄だといえましょう。人は執筆者の意図とは関係なく、自分の読みたいものを文章の中に見出すからです。人は自らの感情のおもむくままに誤読します。
厳密にいえばそれは誤読ではないのかもしれません。
表現の不備により文意が誤って伝わっているわけではなく、文意を汲み取ることよりも自分があらかじめ用意した結論をそこに見出すことを優先する人が一定数存在する、そういうことなんだと思います。

人は文章の中に、自分に都合のいいものを見つけ、都合のいい部分だけに反応します。

きちんと書けばきちんと読んでもらえる、というのは幻想にすぎません。
いくら文章を研鑽したところで、あなたの書きたいことは完全には読者に伝わらないのです。
よりよい文章を書けば……、先人の文章に学べば……に代表される向上心はたいへん結構なことだと感じますが、そのことで事態が解決すると考えているならば、それははっきり驕りだと思います。

「自分が書いてることは誰にも伝わらない」

そんな諦念を前提とした上で更新するほうが、闇雲な向上心を掲げて更新するよりも有効なのでは、と僕は考えます。

「叩かれないための文章」については次回以降に書く予定です。→第6回:向上心が低い