ユリイカ 特集:ブログ作法

mhk2005-03-28

ISBN:4791701321
「ブロガーがネットを発見する」という原稿を書いた。竹熊健太郎氏の「『たけくまメモ』繁盛(させたい)記」の後ろに載っている。竹熊さんの「ブログをはじめたのは決定的な体験となった!」みたいなアッパー系の原稿のつぎに、「憂鬱だ……。ページの更新などしてもぜんぜん楽しくない。いいこともない。何もない。ブロガーどもがこの世を不毛に塗りつぶしていくので、自分の居場所もなくなった。回線切って首吊って氏のう」みたいなダウナーの極み原稿が載っている。ゲラ校正したら誤字がふえてて、それも気分を暗くする。ばたばたしてたからなあ。
遠い昔、「m.e.s.h.―メディア環境学研究室―の人たちの見てるインターネットとぼくの見てるインターネットは絶対ちがうものだと思いました。(以下略)」と書いたけど、今回もだいたい同じで、ネット空間に抱いている印象はそれぞれちがうんだな――と思われました。

  • ページの更新しても、反応なんか何もない。闇の中にボールを放るみたいなもので、変な球を投げてしまった時に限って何かが飛び出してくる。
  • それはたいてい負の利益をもたらす。
  • 冷静に考えてみると、更新に費やした時間、べつのことをしたほうがよかった。
  • ブログで脚光を浴びてる人間って、もとから有名な人だけなんじゃないの?
  • 無名人がのし上がるためには、ブログがどうの以前の才能か、質を凌駕する量の更新(自分の実生活を完全に捨てて)しか方法はないんじゃないのか?
  • 結局、現実社会と変わらないよなあ。

たいていの人間の場合、ブログに限らず、ネットに文章をアップする行為は、無か負か不毛かの三択に終わるような気がする。はてなに移行して更新頻度がめっきり落ちてからもそこそこのアクセス数はある自分みたいなのは特殊な例にすぎないだろう。
お気に入りのブログに対して「読者になる」登録が可能なアメーバブログで新着をつらつら眺めていても、その読者数はたいてい一桁で(読者にならなくても閲覧は可能。はてなアンテナの被登録数に近い感覚であろう)訪問者数にしてもせいぜい二桁くらいだろう。そういう人って、トラックバックとかそういう反応にも無縁のまま淡々と続けているんじゃないか。ならばブログの優位性というのは、コミュニケーションツールうんぬんではなく、単に更新の利便性だけではないか、と思う。2ちゃんねるweb制作板における長寿スレ「1日6hotだけれどアクセス解析入れました」(ダイジェスト版)、同じくブログ板の「人が来ないBLOGの管理人集まれ」「アクセス数を増やす為に色々と頑張るスレ。」あたりの感覚が普通なんじゃなかろうか。
また、アクセス数が増えたら増えたで、厄介ごとは確実に起きる。mixiにハマって本サイトの更新をおろそかにしている絵師を糾弾しよう! みたいなことを考えた人がいて、不名誉なリンク集なるものを作った。叩かれてすぐに消したが、キミみたいな人がいないmixiは居心地いいんだよ……と思われた。文章を書いてる自分みたいな人間とはちがって、人気の絵師たちは無茶なことを言われる頻度がたぶん相当に高いのだろう。失礼な例だが、それは炭鉱のカナリアが先に息苦しくなって鳴きだすようなもので、そのうちこちらも普通のネットではコメント欄をオフにして意見はメールフォームにて、コミュニケーションについてはより高機能になった(親しさレベルの設定ができるといいと思う)mixiみたいなSNSで、という形になるだろう。いろいろ面倒だから。みもしらない人間はなにを言い出すかわからない。
既存ブログのコメント欄やトラックバックのやり取りで、デメリットを凌駕するような有意義な事ってそうそう起こるものなのか? と信じがたい。そんなにいいものなのか?